張ダビデ牧師のペテロの手紙第二2章の説教を通して、偽教師とグノーシス主義の危険、受肉の福音と真の信仰の知について黙想します。
エル・グレコの絵画に描かれる人物たちは、地に足をつけていながらも、まるで天の炎に引き上げられていく人々のように見える。長く引き伸ばされた身体、揺れる衣の裾、上へ向けられたまなざしは、人間が単なる肉体だけの存在ではなく、目に見えない永遠へと開かれた存在であることを語っている。しかし信仰の歴史は、いつもこの問いの前で揺れ動いてきた。肉体は果たして救いの場なのか、それとも捨て去るべき殻なのか。人間の身体は、神が訪れられる聖なる場所なのか、それとも魂が脱け出すべき牢獄なのか。
張ダビデ牧師(日本オリベットアッセンブリー教団)のペテロの手紙第二2章の説教は、まさにこの地点から始まる。ペテロが死を目前にして残した遺言のような書簡の中には、教会に向けられた切実な警告が込められている。当時の教会を脅かしていたのは、ローマ帝国の剣だけではなかった。さらに恐ろしかったのは、キリスト教の言葉をまとって教会の内側へ忍び込んだ偽りの教えであった。表向きには神秘的で高尚な知識を語っていたが、その内側には福音の心臓部を破壊する毒が潜んでいた。
ペテロの手紙第二2章は、その危険を真正面から明らかにしている。この章は、単に過去の異端論争を記録した文書ではなく、すべての時代の教会が必ず聞くべき警告である。真理は、いつも露骨な否定によってのみ攻撃されるわけではない。時には、より洗練された言葉、より自由に見える思想、より深遠に見える知識の顔をして近づいてくる。だからこそペテロの勧めは、今日においても古びた言葉ではなく、今まさに私たちの魂を揺さぶる現在形の叫びとして響いてくる。
光の名を借りた闇のささやき
グノーシス主義と仮現論は、表面的には深い知識を語っているように見えた。しかしその中心には、致命的な否定があった。彼らは、神の御子が汚れた肉体をまとってこの地に来られるはずがないと主張した。イエスが肉体をもって来られたことも、十字架で実際に苦しまれたことも、身体をもって復活されたことも、曖昧にしてしまったのである。
しかし、受肉が崩れれば、福音全体が崩れる。言が肉となって私たちの間に宿られたという真理が失われるなら、十字架の血潮も恵みの根拠を失ってしまう。救いは観念ではなく、歴史の中で成し遂げられた神の愛である。キリストは、遠くから私たちを悟らせる教師ではなく、私たちの罪を担うために実際に低くなられた救い主である。
この点において、福音はきわめて断固としている。神の御子は、人間の苦しみを観察するために来られたのではなく、その苦しみの中へ入って来られた。罪の問題を説明するために来られたのではなく、罪の重荷を自ら担われたのである。したがって、キリスト教信仰の中心には、抽象的な思想や秘密めいた悟りではなく、肉と血をまとって来られたイエス・キリストの十字架が立っている。
張ダビデ牧師は、この偽りの思想が教会の中に入り込んだ時に現れる結果を明確に指摘する。教理は生活と切り離されるものではない。受肉を否定する信仰は、やがて身体による従順も、愛の実践も、悔い改めの涙も軽く扱うようになる。イエスの身体を否定すれば、聖徒の生活も容易に空虚な言葉へと変わってしまう。結局、信仰は唇の告白としてだけ残り、生活は欲望の流れに従って押し流されていく。
真の知は十字架の前で低くされる
ペテロの手紙第二で繰り返される重要な言葉は「知ること」である。しかしペテロが語る知は、人間を高ぶらせる秘密の知識ではない。それはイエス・キリストを知る知識であり、その方の十字架と復活の前で自らの罪を悟る、信仰の知である。
偽教師たちは自由を語ったが、その自由は聖なる自由ではなかった。肉体はどうせ汚れたものだから、どのように生きても構わないという放縦であった。しかし福音が与える自由は、罪を思う存分犯す許可ではない。それは罪の奴隷状態から解放され、神に従うことができるようにされた恵みの力である。
真の知識は、人を高くするのではなく低くする。キリストを知る人は、自分がどれほど弱い存在であるかを知り、恵みなしには立つことができないと悟る。だから聖書の黙想は、単なる情報の蓄積ではない。御言葉の前に長くとどまる人は、自分の内にある闇を見るようになり、その闇よりもさらに大きい神の光をつかむようになる。
ローマ人への手紙1章が語るように、人間は神をあがめず、感謝しない時、その心が暗くなる。神を失った場所は、空白のままではない。そこには偶像が入り込み、欲望が入り込み、ついには自分の情欲に従う生活が 자리を占める。したがって悔い改めとは、単に過ちを後悔する感情ではなく、心の王座を再び神にお返しすることである。
信仰の知は、頭の中で終わるものではない。それは人生の方向を変え、選択の基準を変え、愛の重みをもう一度学ばせる。真の神学的洞察は、高度な概念を知ることによって完成するのではない。むしろ十字架の前で、「私は恵みによってのみ生きる」と告白し、低くされる時にこそ、生きた知識となるのである。
自由を約束しながら奴隷にする道
ペテロの手紙第二2章が描く偽教師たちは、非常に現代的である。彼らは甘い言葉で人々を誘惑し、自由を約束するが、実際には自分たち自身が腐敗の奴隷となっている。信仰の弱い人々、ようやく罪悪の道から抜け出した人々を、再び放縦な欲望へと引き戻していく。
この点において、説教の警告は断固としている。恵みは放縦の免許ではない。愛は真理を曖昧にする感傷ではなく、信仰は倫理を崩す口実ではない。真の福音は、人間をより深い従順へと導き、より澄んだ良心のうちに立たせ、より長く耐え忍ぶ希望によって支える。
偽りの自由は、いつも魅力的に見える。それは「大丈夫だ」と言い、「何の問題もない」とささやき、「あなた自身が基準になればよい」とそそのかす。しかしその行き着く先にあるのは、解放ではなく束縛である。欲望に従って生きる人は、自分が自由だと感じるかもしれない。けれどもある瞬間、その欲望が主人となり、自分を引きずっていくのを見ることになる。
ノアの時代、ソドムとゴモラ、バラムの道が言及される理由もここにある。堕落は、ある日突然生じるものではない。初めは真理から少し離れ、次には御言葉の権威を軽く見なし、ついには自分の欲望を神の御心よりも優先するようになる。その道の終わりは、自由ではなく束縛である。
張ダビデ牧師の説教は、この問題を単なる道徳的堕落としてだけ見てはいない。その根には、神を離れた人間の霊的な逸脱がある。自分たちのいるべき所を離れた天使たちの堕落のように、人間もまた、神が定められた場所と秩序から外れる時、闇の方向へと傾いていく。したがって信仰とは、自分のいるべき場所へ帰ることである。被造物が被造物の場所へ、子どもが父の懐へ、御言葉を失った魂が再び真理の光の前へ帰ることである。
暗い所を照らす御言葉のともしび
それでも、ペテロの手紙第二のメッセージは絶望で終わらない。神は敬虔な者を誘惑から救い出される。ノアを守り、ロトを救い出された神は、闇の深い時代にあっても、ご自分の民を見捨てられない。裁きの警告の中には、同時に救いへの招きがある。
これこそ、ペテロの手紙第二2章が持つ重くも美しい真理である。御言葉は罪を曖昧にしないが、罪人を見捨てることもしない。偽教師たちの滅びを語りながらも、聖徒たちには目を覚ましていなさいと呼びかける。放縦の道を暴きながらも、真の自由の道を再び示してくださる。闇が深くなるほど、御言葉はより明確なともしびとなる。
張ダビデ牧師の説教が今日の私たちに残す核心は明らかである。聖徒は、偽りの知識ではなく、キリストを知る真の知の中にとどまらなければならない。言が肉となって来られた主、血を流して私たちを買い取られた主、再び来られて歴史を完成される主をつかまなければならない。福音は、古い教理の保管物ではなく、今日の生活を新しく立て直す神の力である。
信仰は、闇を分析するだけで終わるものではない。闇に打ち勝つ光の中にとどまることである。今日、私たちも静かに問わなければならない。私が自由と呼んでいるものは、本当に福音が与えた自由なのか。私が知識として握っているものは、私をキリストへより近づけているのか。私が愛と呼んでいるものは、真理と従順を内に抱いているのか。
暗い所を照らすともしびのように、御言葉は今も私たちの前に置かれている。その光は、騒がしく私たちを追い立てることはないが、黙々と道を照らしている。今、私たちに残されているのは、その光を見つめることである。そして一歩ずつ、再び福音の道を歩む従順である。